久々利城址探訪 ’02春

 

 先日の土田城址に続いての城山です。3月4日、可児市の東部、久々利(くくり)という地区にある山城の跡が、久々利城址です。やはり中世の山城で、美濃国守護であった土岐氏の流れをくむ、土岐三河守悪五郎の居城でした。この悪五郎という個性的な名は、代々久々利城主が世襲した名です。

 登山口は、県道土岐可児線の途中、可児郷土歴史館という施設の北側にあります。石碑や看板が有り、階段も整備されているので、すぐにわかります。その階段をジグザグに登ります。

 階段を登り切ると平坦な道に出ます。そして最初に到達する広場が、大手曲輪です。ここには石組みの井戸の跡が残っていますが、石組みは新しいもので、当時のものではありません。井戸自体は当時からあったものかもしれませんが、不明との事です。現在は土で埋まっています。

 大手曲輪から少し段を登ると、木々が無く開けた場所に出ます。立っている場所が三の曲輪で、見上げると段状になった全体の曲輪構造がよくわかります。三の曲輪の上が二の曲輪、その上が本曲輪となります。その高低差は10m近くあるでしょうか、斜面も急です。後の時代の城のように石垣こそありませんが、山の斜面に手を加えて築いた、典型的な中世の山城と言えます。

 向かって右へ巻くいて進むと、二の曲輪に行くことができます。今度はそこから三の曲輪を見下ろすことができます。ここで、下から攻め上る敵を防いだのでしょうか。

 本曲輪では、再び右へ巻いて行きます。生い茂った竹林の中を進みますが、道の右側は急斜面となっています。やがて、左右に分岐しますが、左手が本曲輪の方向です。ちんみに、右は「堀切」と表示があります。

 本曲輪の回りには椿が生え、少しだけ花が咲いていました。椿とは、城跡にふさわしい花ではないでしょうか。曲輪の端まで行くと、なかなか高度があり、久々利城下町を見下ろすことが出来ます。城主はここで、戦闘の指揮をとったのでしょうか。

 その後、堀切の方にも行ってみましたが、まず土塁に行き当たりました。足元が切れ落ちており、その先には進めそうもありません。その日は仕方なくそれで引き返したのですが、実は情報を得て後日その場所へもう一度行ってみました。土塁の手前を左に巻くことで、堀切跡に到達できました。二本の堀切を確認できましたが、その奥にもう一本あるという堀切までは、やぶが深くて行くのをあきらめました。

 土田城が、天然の要塞に近いのに比べると、久々利城は、山の地形に大がかりな手を加えたものという印象を受けました。久々利城址は、曲輪や堀など、中世山城の遺構を良く残しているといえるのではないでしょうか。後の時代の堅牢、あるいは立派な城と比べれば簡易で見劣りしますが、日本の城の変遷を見る上では面白い場所だと思います。城と言えば姫路城などをどうしても思い起こすのですが、各地にあった初期の山城の構造を学ぶのに良い機会になりました。

(2002.3.21 FYAMAPに掲載)

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